「ただいま、蒼葉さん」 「蒼葉、ただいま」 扉の音と共に響く二つの声。 すっかり慣れてしまった、いつもの生活。 今の蒼葉にはそれしかない。 ゆっくりと顔を上げる頃には、 大きな二つの影は蒼葉のいるベッドの傍へ歩み寄っている。 「今日はプレゼントがあるんですよ?」 「とっておきのね」 「……?」 やけに楽しそうに、ウイルスがトリップの持っている袋を指す。 「拘束具も必要なくなった蒼葉さんに、ご褒美です」 そういえば、最近は二人がいない間も手足は自由にされている。 けれど、もはや逃げ出そうと思うことはなかった。 ──きっと捕まるし…。 それは言い訳だろうか。 もう元の関係には戻れない。 この二人の仕打ちは、決して赦せるものではない。 心では、到底。 でも、蒼葉の体は与えられる鮮烈な刺激を…。 認めたくはない。 それは、認めてしまえばこの二人から離れられなくなる… そんな自分が怖ろしいだけだ──と、頭のどこかでは解っている。 逃げられない籠の中で、それでも生きている。 その為に必要だったのは、順応。 少なくとも、蒼葉の半分は既に陥落しているのだろう。 「蒼葉、これなーんだ?」 そんなトリップの声でふと我に返り、蒼葉がその手元に視線を移す。 ゆっくりと袋から取り出されたものは…── 「──え…?」 あまりのことに、言葉が出なかった。 だって、それは…。 見間違えるはずもない。 この部屋へ連れて来られてから、相当の時間が経っていて。 その間は見ていなくて…でも、間違えるはずがない。 あれからどうなったのか気になることもあったが。 半ば、諦めていた。 それが、今…。 「れ、ん…?」 恐る恐る、口にする。 「そう。蒼葉のオールメイト。はい、どうぞ」 トリップの大きな手が、眼を瞑ったままの小さな青い塊を、蒼葉の前へ差し出した。 「…本当、に…?」 「えぇ、本物ですよ。ワームにやられていたので除去したり、 修復用の旧型の部品を入手するのに時間が掛かってしまいましたが」 「AIもボデイもそのまんま。壊れてたところ直しただけ」 「……」 あの時、確かに蓮は動かなくなっていた。 今更ながらに、当時の状況が鮮明に脳裏に蘇る。 気づいたときにはこの部屋にいたので それからどうなったのかは知らなかったが、まさか…。 伸ばした指先が、震える。 そうして、慎重に…そっと、触れる── ふわふわとした感触は、記憶にあったのと変わりなく…懐かしささえ感じた。 それから、抱き上げた青色の頭を無意識に軽く揺らす。 こんなに離れていたのは初めてだが、その動作を体が覚えていたことにも驚く。 すると、とても長く感じた一瞬の後、 大きな眼がゆっくりと開き、蒼葉を捉えた。 『──…蒼葉』 「──…っ!」 耳に馴染んでいた声が…。 何も変わっていない。 そう思った瞬間、壊れたように涙が溢れて言葉が出なくなった。 『蒼葉、大丈夫か? 感情が昂ぶっている』 「……蓮…、蓮…っ!」 昂ぶらないわけがない。 もう、叶うことはないと思っていたのだから。 蒼葉は裸の胸に蓮を抱き込み、ギュッと力を込める。 その存在を確かめて、更に温かいものが頬を伝い落ちていった。 それと同時に、どこか遠くへ置き去りにしていた心が 少しだけ現実に引き戻された感じがした。 「喜んでもらえたなら良かったです」 「ちょっと妬けるけどね」 ウイルスとトリップがベッドへ腰掛け、そんな蒼葉の様子を覗き込んでいる。 「…蓮、もう大丈夫なのか…?」 『あぁ、ウイルスとトリップが直してくれた。違和感も消えて、すっかり元通りだ』 「そっか、良かった…」 動かなくなる直前までのおかしな様子もなく、本当に「元通り」といった感じだ。 そういえば今、ワームがどうとか…。 改めて、蒼葉はウイルスとトリップの方へ向き直る。 「…お前らが…? ワームって…」 「壊れる前、様子おかしかったっしょ」 何故知っていたのか…は、あのタワーの中でのことなど筒抜けだったのだろう。 改めて訊くまでもない。 「おそらくどこかで感染してたんですよ。一時期、悪質なのが出回ってましたから」 ずっと調子が悪そうだったのは、その所為だったのか。 今更この二人の言うことを鵜呑みにはできないが、 蓮の様子がおかしかったのは事実で、そうでもなければ説明がつかない。 とにかく、蓮が戻ってきた。 今はそれだけでいい。 「──…ありがとう」 赦せるものではない、けれど…。 蒼葉が口にすると、二人は同時に少しだけ目を瞠り、それから笑った。 「素直な蒼葉も可愛い」 「そんなに大事だったんですか?」 ──どうしてそんなに大事か、考えたこと…あるか? 遠く遠く、ずっと昔に聞いたような言葉。 そんなものも、もうどうでもいい。 小さく頷いてから、蒼葉は腕の中の蓮を撫でた。 すると、蓮が身を捩って蒼葉を見上げる。 『…迷惑を掛けて、すまなかった』 「無事だったなら、それだけでいいんだ」 たとえ捕まっていなかったとしても、 蒼葉一人では蓮を直せたかどうかもわからない。 二人が旧型の部品も入手してくれたようなことを言っていた。 何としても直すつもりではあったが、それも、一人では難しかっただろう。 そこまでして直してくれたのだと思うと…。 赦していないと思うのに──やはり、嬉しい。 「お前ら、なんでこんなこと…」 そんな手間を掛けてまで、蒼葉のためにということだろうか。 こんなふうに自由を奪っているというのに。おかしな話だ。 「俺たちは、蒼葉さんに喜んでもらいたいだけですから」 にこやかにウイルスが答え、 「そうそう。蒼葉が喜んでくれたら、俺たちも嬉しい」 トリップもまっすぐに蒼葉の眼を射抜く。 昔から蒼葉が知っているウイルスとトリップが、そこにいる。 もう何度も狂気を見せ付けられてきたというのに… やはり、捨てきれない思い出や感情もたくさんある。 嫌なのに、嫌いになれない。 何もかも奪われているのに、与えられる。 この関係は複雑過ぎて、蒼葉の感覚では理解の範疇を超えている。 すると、 『蒼葉、あまり考えすぎると思考回路が…』 「っ、…わかってるよ!」 蓮のそんな変わらないやりとりも懐かしくて、蒼葉はふと嬉しくなった。 語尾と同時に、自然と笑みがこぼれる。 きっとそれは、この部屋へ来てからは初めてのことで。 もうずっと忘れていた感情だったから、少しぎこちなかったかもしれないけれど。 「…ほんと、ちょっと妬けますね」 「蒼葉、俺たちには?」 と、ウイルスとトリップが蓮越しに蒼葉の顔を覗き込む。 あれだけ怖ろしくも感じていた存在が、なんだか子供みたいだ。 そう思うと、意識とともに遠ざけていた言葉が自然と溢れてきた。 「…蓮のことは感謝してるけど、お前らのこと…許したわけじゃ…」 二人を交互に睨み、蒼葉がゆったりとした声で呟く。 いくら時が経とうと、二人に受けた数々の仕打ちを忘れることはできない。 今だって、タエや旧住民区の皆がどうなっているのかも分からない。 ウイルスとトリップに訊いたところでそれが真実かどうかは不明だし、 何より、聞いてしまうのが怖かった。 その状態のまま、もう長い月日が過ぎている。 あの時、もっと蒼葉に出来ることがあったら…──後悔は尽きない。 しかし二人は全く意にも介さず、しれっと言い返して来た。 「そうは言っても、蒼葉さんは既に東江に見つかってましたからね。 俺たちが捕まえて、こうして手出しされないようにしてなければ もっと大変な目に遭ってたかもしれませんよ?」 「全部上手くいって何でも手に入るなんて、そんな都合のいいことって滅多になくね?」 「それは…」 確かに、別の道があったとしても上手くいったかどうかは分からない。 それだったら、蒼葉が生きていて、蓮も無事だったというこの状況は 少なくとも最悪の結果ではなかった…ということなのだろうか。 どことなく腑に落ちないものも感じるのだが、その正体が蒼葉には解らなかった。 どちらにしろ、過去は変えられない。 現実は現実として受け止めなければならない。 この二人が蒼葉を手放さない限り、蒼葉は…。 「だから、蒼葉さんは俺たちのことだけ考えていてください」 「俺たちも、蒼葉のことしか考えてないから。ね?」 「そうです。俺たちの存在を刻むために、最初は恨みや憎しみでもいいですが…」 「次は心も、俺たちにちょうだい」 言いながら、ウイルスとトリップがそれぞれ蒼葉の頬に唇を寄せる。 ビクリと体が反応するのと同時に、胸の奥がざわめいた。 ──心も…。 それは最後の砦だと思っていたのに。 考えたくなくて、目を逸らしていた。 すべてこの二人に委ねてしまったら…蒼葉はどうなるのか分からないから。 「まぁそれはゆっくりでいいですよ。時間はたっぷりありますからね。ねぇ、蓮さん?」 不意に、ウイルスが蒼葉の腕の中の蓮へ向かって問い掛けた。 『あぁ、蒼葉がここにいるのなら、俺もずっと一緒にいる。だから、安心していい』 小さく頷いた蓮は、大きな瞳でしっかりと蒼葉を見上げて諭す。 「蓮…」 そう、蓮はずっと一緒で、いつでも蒼葉の味方で…。 その蓮が安心していいと言うのだから、それで良いのだろうか。 なんだか、頭の奥がぼうっとする。 久しぶりに色々なことがあって、少し混乱しているのかもしれない。 『蒼葉、これからはずっと一緒だ』 それから、左右にはウイルスとトリップもいて。 「もちろん、俺たちも一緒ですよ」 「そう、ずっと…ね」 そんな台詞を、蒼葉はぼんやりと聞いた。 頭全体に霞が掛かったようで、脳髄が白く溶けてしまいそうだ。 意識はあるのに、すっきりしない。 この部屋へ来てからは、ぼうっとしていることも多かったが、 それとは何かが違う。説明はできないけれども。 まるで、強制的な力に頭の中を持っていかれているような…。 『ウイルスもトリップも、俺も一緒にいる。だから、もう大丈夫だ』 「──…れ、ん…?」 落ち着いた蓮の言葉に、蒼葉は掠れた声でそれだけ呟いた。 蓮が、大丈夫だと言っている。 何か、考えなければならないことも、 言わなければならないことも、あった気がするのに。 …思考がまったく働かない。 でも、連がそう言うなら…。 「少し疲れましたか? 蒼葉さん、また明日」 「おやすみ、蒼葉」 「……」 それを合図に、蒼葉は眼を閉じ。 自ら、考えることを放棄して、 闇の底へと意識を沈めた。 (END 2012.6) |