[ blackcurrant ]
(ユキヒト×アキラ)



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 たまたまバイトの終わる時間が近かったとか、そんな些細な理由だったと思う。

 突然思い立ったアキラは、帰途についていた足を翻した。
 行き先は…前に一度だけ行った事のあるバー ─ ユキヒトのバイト先、だ。

 ここで働き始める以前から、ユキヒトは落ち着いた雰囲気が気に入ったといって良く来ていたようだ。
 あまり酒は好まないアキラは、確かに雰囲気は良くともそれほど足繁く通おうと思ったことはない。

 ただの思い付き。
 それと。
 先日、アキラのバイト先に突然ユキヒトが現れたことも、引っ掛かっていたのかもしれない。
 様子を見に来たと言っていた。
 それなら、アキラだって気軽に行っても構わないのではないか。

 少しだけ、訳の解らない緊張に駆られながらも、アキラは足早に店の入口をくぐった。

「いらっしゃいませ」

 静かな声でカウンター越しに声を掛けてきたのは、見知らぬ男だった。
 グラスを磨く慣れた手つきといい貫禄といい彼がこの店のマスターなのだろうか。

 それから奥を見遣れば、すぐに鮮やかな赤い髪が飛び込んできた。

 ユキヒトは一瞬だけ唖然とした表情を浮かべたが、すぐに呆れたようにフッと笑った。
 ─ この非日常の空間で、いつもの見慣れた顔があったことに、アキラは知らず微かな安堵を覚える。


 何気ない素振りでアキラがカウンターの一番端の席に腰掛けた。

 すると、何かを言う前にスッとユキヒトがマスターに歩み寄って何事かを囁く。
 微かに頷いたマスターが場所を空け、アキラの前にはユキヒトが立つ。
 大方、知り合いだということを教えでもしたのだろう。


「どうしたんだ? 急に」

「…別に。寄ってみただけだ」

 いきなり現れたというのに驚きもしないユキヒトの態度に、アキラも何気なさを装って返す。
 と、ユキヒトもいつもの調子で返してきた。

「そうか。何か飲むだろ?」

「なんでも」

「なんだよ、それ」

 バーとは酒を飲みに来る所だ。
 それは判っているが、何となく来てしまったこの状況で、サラリと応えられるほど慣れてもいないし口も上手くない。

 しかし、ユキヒトは心得ているのか、アキラの返答を待つでもなく、少しだけ笑って手を動かし始めた。


 いくつかのボトルを器用に操り…そんな仕草に眼を奪われていた間に、軽い音を立てて細身のグラスが目の前に置かれた。

「どうぞ」

 わざとらしい態度でユキヒトが笑う。

 グラスに注がれていたのは、軽やかに泡を立てる、透明感のある薄い青のカクテルだった。
 それはまるで、アキラの瞳の色を映し込んだような色。

 それから、ユキヒトがカウンターの裏へ消える。おそらく厨房だろう。
 素っ気無い対応だったが、仕事中だから仕方がない。
 アキラはそれを見に来たのだから、何も文句を言うべきではない。
 …少し、寂しいような気がしても。


 爽やかな甘さのあるカクテルを呷っていると、しばらくして奥からユキヒトが現れた。
 その手には、綺麗な黄味の色とケチャップの赤が映えるオムレツの皿を持って。

「サービス」

 と、ユキヒトはそれをアキラの前へ置いて、再び下がっていった。
 見れば客が増え始めていて、アキラにばかり構っている訳にはいかなくなったのだろう。

 スプーンを手に取ろうとして、そこに巻きつけてあるメモに気付いた。
 小さな紙を広げてみると、走り書きながらも神経質そうに整った文字が見えた。

“もうすぐ終わるから、それ食べて待ってろ”

 ずいぶん一方的だし、こんなに忙しくなってきたのに上がれるのだろうか…。
 と、思ったものの、アキラはメモを畳んでポケットにしまい、ゆっくりとオムレツに手を伸ばした。
 たまに家でも作ってくれるものと、同じ味だ。



 ─しかし。

 極力ゆっくりと皿を空けても、グラスを空けても、ユキヒトが接客から解放される気配はない。

 そうして彼の動きを眼で追っているうちに…。

 親しげに話しかけられている。
 客と楽しげに談笑している。
 あまり見たことのない、やわらかな笑顔。

 なんとなく胸の奥がチリチリした。
 なぜだか、面白くない。

 悪酔いでもしたのだろうか。

 どうしてもこの場にいたくなくなり、アキラは適当な代金をカウンターに置くと、足早に店を出た。




 部屋に着いてからもグルグルと得体の知れない感情を持て余していると、程なくしてユキヒトも帰ってきた。

「アキラ!」

 些か怒っているような声で、ユキヒトはアキラの目の前まで詰め寄る。

「メモ、気付いたんだろ?」

「あぁ」

「なら、どうしてここにいるんだよ」

「…なんとなく」

 それ以外に答えようがなく、アキラは口篭る。

「はぁ?」

 無論、ユキヒトは不審そうな顔をした。
 仕方なく、アキラは溜め息とともに思ったままを口に出す。

「…俺がどうしようと勝手だろ。お前も、楽しそうだったし…」

「……。お前それ…もしかして、やきもちか?」

 驚いた顔で聞き返すユキヒトが妙に腹立たしい。


 やきもち。嫉妬。…そうなのだろうか。


「うるさい」

 考えるのをやめて、アキラは顔を逸らした。
 すると、途端にユキヒトの口角が上がる。

「ふーん。─…お前、可愛いところもあるんだな」

 ニヤニヤと言われ、更に居たたまれなくなる。

 黙っていると、覆い被さるようにしてユキヒトが追撃をかけてきた。

「…っ、重い。ユキヒト!」

「客には、こんなこと…しないだろ?」

 耳元で囁かれて力が抜ける。
 そのまま唇で優しく啄ばまれて、アキラは慌てて距離を取ろうともがく。

「あ、たりまえ…だ」

「それで、いいだろ?」

「……」

 思えば、勝手に帰ってしまったのはアキラの方だ。
 たとえ一方的な約束だったとしても、理由も告げずに…子供みたいだ。

 どうも、ユキヒトにはペースを崩される。
 それだけ、アキラの心の奥深くまで踏み込んでいるというのに…本人は気付いていない。

「…悪かった」

「飲み直しするか? 二人で」

「あぁ。今度は俺が何か作る」

 先ほどのオムレツを思い出しながら言うと、

「アキラの手料理、ね…。俺、明日もバイトあるんだけど」

 複雑そうな溜め息をつかれて、アキラは首を傾げる。

「どういう意味だよ」

「─いろんな意味で」

「…?」

 妖しげに光った瞳の意味を不思議に思ったまま、二人は仲良くキッチンへと向かっていった ─





(END - 2008.8.8.)